誰よりもよく自分自身を知っている人は、誰よりも自分を尊敬することが少ない。
『文読む月日』ちくま文庫 レフ・トルストイ 作 北御門二郎 訳
謙虚になれよ、というお説教はよく出てきますね。
ただ、キリスト教の(ざっくり外国の)謙虚ってなんか日本の謙虚とニュアンスが微妙に違う気がしますがどうでしょう。
日本的な謙虚は、集団の中での調和、相手への配慮が主軸だと思います。(社会的)
自己表現は控えめ、相手を立てる、和を乱さない、場の空気を読むというのは実利的ですが外面的です。(さらに現代の個人主義から見たら息苦しさなどのデメリットになってきていますよね)
キリスト教的な謙虚は、神の絶対性に根ざしたものがあるような気がします。(内面的)
神と比べて人間の矮小さや罪深さを信じ、逆に神の恩寵にすがることが精神的な成長で、世間への体裁よりも内面の誠実さ(信心深さ)を大切にしていると思います。
自己主張を抑えるという振る舞いは同じように見えますが、日本的な謙虚は対人関係を円滑にするもので、キリスト教的な謙虚は内面的な信仰の態度というような感じに思います。
というわけで、謙虚という言葉をそのまま受け取っても腹落ちしないような部分があるわけですね。
特にこの箴言は日本的な謙虚のニュアンスで読んでも整合がつかないと思います。
自分を知っていると自分の罪深さや至らなさ(絶対の神と比べるのですから)から自分を尊敬できないはずだ、という意味ですね。
自己肯定感が下がりそうですが、比べる相手が絶対完璧なのでへこまなくて済みますね。よくできてますね。
コメント