『文読む月日』-3月23日

文学

自分や自分の家族を養うに必要な以上に土地を私有する人は、一般民衆の苦しみの原因となっている困苦や欠乏や堕落への参加者であるのみならず、その責任者でもあるのだ。

『文読む月日』ちくま文庫 レフ・トルストイ 作 北御門二郎 訳

当時の経済的な価値観は、世界には一定の富がありそれが人々に配分されているという観念だったそうです。
そうすると、この箴言も信憑性があります。
現代の経済学からすると、富は増加しうるのでこの考えは素朴な面があると言えそうです。

とはいえ、土地はなかなか増えませんから、土地に限定して言えばゼロサムゲームのように考えるのも一理ありますね。
このトルストイの批判は当時のロシアの状況(農民が土地を持てず、地主が支配する)においては特に説得力を持っていたようです。

現代は当時よりも産業が多様化していますから、土地に富の大部分が影響されていた時代よりは実感が湧きにくいところがあると思います。

ただ、現代でも大企業が市場の富を独占しがちだったり、貧富の差というものは依然として変わっていません。
土地が大きな影響を持っていた経済から無形の市場が台頭してきた今でも格差というものは変わっていませんね。
必要以上に富を得ることというのがふわふわしていますが、その儲けの原理を紐解いてどこまで責任を追及するのがよいのでしょうか。

刑法的な責任の有限性と似た考えができそうですね。
多すぎる富を得た人が、どのようにして儲けたのか、儲けのために損をする人が予見できたのか、提供するサービスよりも多い対価を受け取っていないか、などは因果や予見可能性と似た考えができそうです。
一方で、相続など個人の行い以外でも富を受けることもありますから、個人の行いを取り扱う刑法とは明確に違う部分もあります。

なぜ刑法を持ち出したかというと、トルストイのこの言葉はまるで土地を多く持つ人に罰則が必要だと言わんばかりだったので。
また、現代でもお金持ちには罰則を与えたいというような気持ちを持つ人は多いのではないでしょうか。
人間の感覚として、富める者を見たときに自分は損をしていると感じることは自然だそうです。
(スパイト行動といって、特に日本人に多いそうですが・・・)
素朴な感情の観察から制度や罰則が出来上がっていることが読み取れているようでおもしろいですね。

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