『文読む月日』-7月4日

文学
刑罰を課することは、まるで火を暖めるようなものである。あらゆる犯罪は常に、それ自身のなかに、人々が課しうるいかなる刑罰よりもより厳しくて、より合理的で、より行なわれやすい刑罰を含んでいるものである。(訳註――これは『老子』「道徳経」 第七十三章の「天網恢恢、疎にして失わず」の思想そのままと言えるであろう)
『文読む月日』ちくま文庫 レフ・トルストイ 作 北御門二郎 訳

いつも箴言に関連する他の思想を探して記事にしているのですが、訳注で既にやられていますね。

敢えて行動する人は殺され、敢えて行動しない人は生きることができるとする。世の中の両者には利と害があり、そして天が悪であるとするものは何であるかを知る人はいない。天道というのは争っていないのに勝つことであり、何も言っていないのに応えられ、呼んでいないのにやってきて、とても範囲が広いのによく謀られているものである。天の張り巡らした網というのはとてつもなく範囲が広くて粗いものの、天は少しも見逃してはいないためにこのようになるということである。

老子は道に従って生きるをテーマに思想を展開しています。道は自然の合理性を信仰に含み、ここではそれで利害とその因果を説明していますね。

トルストイの思想としては、人は人を罰すべきではない、罪を犯した人はそれ自体ですでに罰を受けているし、同じ人間(キリスト教的には罪人)が誰かを罰するというのは却って敵対心や分断を生む信仰に反することであるというものですから、お天道様は見ている的な考えは親和性があるということですね。

一神教のキリスト教ですが、トルストイの考えは汎神論にも通ずるものがありますよね。
ストア派は汎神論といわれますが、後期にはギリシア今日のゼウスを自然を司る主神とみなし、信仰が融合していった様子が見られます。(『自省録』をみると、マルクス・アウレリウスはゼウスに祈っていたようです。)

老子も人格の神ではなく「道」という自然的な根源を根底に思想を展開したものです。
そういう流れで、トルストイの思想と親和性があると言えます。

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