『文読む月日』-7月17日

文学
暴力によってのみしか人々に働きかけることができないのなら、人間の理性は一体なんのためにあるのだろう?
『文読む月日』ちくま文庫 レフ・トルストイ 作 北御門二郎 訳

宗教的な文脈で使われる理性というのは、肉体から離れた次元の神聖な知性の事で、大脳新皮質の前頭葉の部分が関わっている高度な知能とは違う側面で理解されていると思います。

そもそも魂と肉体の二元論に立っているので、心の中に神が存在する=魂は神から分たれたものという前提があります。

という意味で暴力を振るうのは動物的で卑しい事だというのが主張されているわけですね。

また、ここで想定される暴力はもちろん個人間のいさかいや小さい集団単位での小競り合いみたいなのも含んでいると思われますが、1番は国家、軍隊でしょう。当時の国際情勢(ナショナリズム)に加えロシアではクリミア戦争の敗戦から続く改革、貴族の没落など人々は融和・合一から離れていく時期でした。

クリミア戦争の経験から反戦意識と宗教的自我が芽生えたと言われるトルストイですから当然暴力にも反対です。信仰心で分かり合う事が理想的な人類の形と考えていたように思います。

戦争の恐ろしさ、悲しさ、それを分解して解釈し、迷妄や偽宗教に惑わされ本来神性のある人間が暴力行為の波に飲まれてしまうのが現代人なんだという風に考えているようにみえます。

暴力に繋がる迷妄とは、肉体的欲求が人生の全てであるという勘違い、特定の国家や集団のためなら他の人間を害してもいいという間違い、この世のものは何でも所有できるという驕り(特に不在地主の土地の占有)などへの批判から推察できます。

これら全てが「正しい」信仰に気づかないが故に起きているという風に考えていると思われます。

今の科学の時代から見れば単純化され過ぎている様にも見えますし、そもそも魂と肉体の二元論というのはファンタジーに感じられます。それでも人間が真剣に行ってきたこのような深い人生への洞察というものには、現代人の興味を集めるのに十分な魅力を持っているようにも思うのです。

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