ただ一つの直接的に確実なものは、われわれの意識の確実さであ(訳註自分のなかには現にちゃんと意識があるということ。”われ思う、ゆえに在りに通ずると思う”)
『文読む月日』ちくま文庫 レフ・トルストイ 作 北御門二郎 訳
デカルトですね。
この世の真理を追究するなか、実在の不確かさに気付き、確かなものは何だろうということで思いつめた先の気付きがこの言葉ですよね。
もっとも確かなものは何かという考えを理性がしているのは確からしいと考えたということですが、キリスト教的な理性と一緒くたに扱うのは危険な気がします。
キリスト教的に理性は神の一部である霊に由来します。
それが人間にとって唯一確かな観念となると、神の存在、霊の存在も確かでないといけませんね。
厳密に言えば、理性があるからと言ってその由来までは特定し得ないのでデカルトの考えを否定できるものではありません。
ただ、理性が確かなのであれば神の存在も確かだと早とちりするのがいけないと思います。
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