もし汝のうちに行動力があるならば、その行動をして愛に溢れたものたらしめよ。もし汝が弱くて無力な存在であれば、汝の弱さをして愛に溢れたものたらしめよ。
『文読む月日』ちくま文庫 レフ・トルストイ 作 北御門二郎 訳
愛の実践には自身の強さも弱さも関係ないという思想ですね。
また、信仰にはそう思うだけでなく実践することに価値があるという考えが色濃く出ているように感じます。
強さ弱さというのは行動力という言葉が使われていますが、それをもたらすのは意志の強さですから、肉体的な逆境や外的要因は言い訳にできない、という厳しさも見えます。
精神が神から分けられた霊の、人間的な表象の一つとして捉えられているためその面で人類みな同胞という考えに筋が通るわけですね。
愛にあふれたものたらしむ目的語が無いのですが、あなたの人生を、ということでしょう。
そしてあなたは人類の同胞ですから、我々の関係を、と言い換えることも可能でしょう。
あなたの人生を愛に溢れたものにすることは即ち人類を愛に満ちたものにする、というふうに読めるでしょう。
ただ、この話の根底には精神が愛を感じ、愛を与えることができるレベルで機能していないと仲間外れになりそうです。
また、愛というのも互恵的な関係を気付く社会性動物でなければ同じイメージで愛情行動を捉えることはできないかもしれません。
そういう対象を仲間はずれにするのは愛の反対のように感じますから、こちらの愛でもって仲間に入れてあげるという感覚になりがちです。
そういう類の違和感が拭えない。
そもそも、精神は肉体の機能の1つだし、愛も互恵性社会が培ってきた肉体の業であることを受け入れないとおかしさが抜けないんだと思います。
人格的で目的を持った神を据える限り、付きまとってくる問題だと思います。
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