“汝らの天の父の完全なるがごとく完全なるべし”(訳註――「マタイ伝」より)。神の完全性、すなわち万人にとっての最高善の理念こそ、全人類の目指す究極目標である。
マタイ伝の引用と、トルストイの解釈がそれに続いていますね。
神の完全性が万人にとっての最高善であり、究極目標と言っています。
勝手に自分の究極目標を決めつけられた感じもしますし、前段の部分がよく分かりませんね。
万人にとっての最高善が神の完全性であり究極目標である、という言葉はほとんどトルストイ語だと思います。
まず、トルストイはクリミア戦争に参加後、人生の意味が分からなくなります。色々勉強しましたがどんなものにも納得ができなかったのですが、その中で宗教に目覚めます。
勉強していくと伝統的な教会キリスト教が原理から外れていることに気付きアンチになります。
トルストイの中での本当のことが分かってくると、人生の目標は信仰の実践であることを確信します。
善とは人間の精神の本質であり、良心がそれを目指しています。
良心は精神が持つ性質であり、精神は元は神から分離し個々の肉体に宿ったものと考えます。
つまり精神は神の一部であり、その性質は善を目指します。
信仰は善を実践するための道しるべであり、神の完全性へ近づく道でもあります。
神はこの世のすべての根源、精神が還る先であり完全性を持ちます。
つまり、神から生まれた人間はより良い善に向かって邁進するのが生きる目標なんだと考えていると私は理解しています。
神というのも特定の人格ではなく、世界の根源のような抽象的な概念として捉えているようですが、やはり完全性が善や良心と結びついていたりするのでキリスト教的なイメージは強く残っていると思います。
今の私たちの感覚だと、人智の及ばない世界の根源に神という言葉を当てはめるなら人間の主観的な善や良心などは結びつかないでしょうし、繋がっていたとしても人間の生態の下に結びつくでしょう。
人間の生態がそのようになったのは神の御業の痕跡だとしても腑に落ちると思いますが。
ともあれ、善の実践を人生の目標にするのはいいことだと思います。
周りに迷惑もかかりませんし、むしろ周りに居たらありがたいですね。
やる側も何も芯なく生活するよりは張り合いが出ると思います。
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