『文読む月日』-4月28日

文学

永遠の遊惰は、地獄の苦しみの一つとして考えられなければならないのに、反対に天国の喜びの一つと考えられている。(モンテーニュ)

『文読む月日』ちくま文庫 レフ・トルストイ 作 北御門二郎 訳

遊惰というと、何もせずダラダラ過ごしていることですが、それが地獄の苦しみと言っていますね。
私の周りにも還暦を過ぎても働いていないとつまらないと言って働いてる人もいますし、人によっては暇というのは苦痛なのでしょう。
脳としても、刺激のない日々が続くと機能が低下しますから、肉体的にもある種ネガティブな結果が想定されますね。

モンテーニュの思想としてうかがえるのは、人間の幸福とは、内面的な充実にこそあるという考えです。
この反対に、遊惰、怠惰は自分自身を責め立て、精神を疲弊させ病ませると考えていたようです。
特に出口のない怠惰は、自己の外側に向かない精神活動と捉え、単なる怠惰な状態、無為の時間は、一見安らぎに見えるけれども本当は人を狂わせ、心を退廃させる方向に向かう、というのがモンテーニュの考えだったようです。

「我々の精神は、もし活動する何かを与えられなければ、自らを内に向けて、自己に対して自らを翻弄する。」

『エセー』第1巻 第39章「怠惰について」

ところで、16世紀の著作である『随想録』(『エセー』)には、「あの人は生涯を無為のうちに 過ごした。 私は今日何もしなかった。」という名言があります。

われわれは大馬鹿者だ。「彼は無為の生涯を過ごした」「今日は何もしなかった」などと言う。——なんだと! あなたは生きたではないか。生きることこそが、最も根本的であるばかりか、最も輝かしい活動なのだ。

モンテーニュ入門講義 (ちくま学芸文庫)

モンテーニュは、ただ生きているだけで偉いと言っているわけです。
出口のない遊惰は自分の心を退廃させるが、なにも成し遂げられずとも生きているだけで価値がある。
西洋の思想家にしては珍しく中庸というか、穏健派というか、自然との調和を感じさせる思想です。
16世紀のカトリック教徒がこのような思想を持っているということがなんだかすごい事のように感じます。

コメント

タイトルとURLをコピーしました