己れの内なる神を意識しつつ神のなかに生き、神とともに生きよ。しかして言葉をもって神を定義せんと試みるなかれ。
トルストイは様々な本の中で謙虚さ・同情心・良心は善き人生を送る上で必要だということを言っています。
そして、それらは神を信仰するからこそ発揮される人間の本質であるという風に主張しています。
神を信じること、神とともに生きることは神を心で確かに感じることを意味していると思います。
しかし、神と言われるものはこの世に物質として実在しているものでも、ましてや目で見たり手で触れたりできない形のないものです。
古今東西この世のはじまりや理を言い表そうとして様々な表現がされてきましたが、そのどれも言葉で簡潔にそれを表すことはできていません。
というのも、人間の認知を超えた存在だからで、この世のものでは表現できないということが証明され続けているだけなのです。
なぜ認知能力を超えた存在を予見したり感じたりするかというと、人間の精神、すなわち霊が神の一部であるからです。
・・・というのがトルストイの宗教観と理解しています。
こういうザ・宗教みたいな要領を得ない理屈は、得体が知れなくて、理解するアプローチが悪いと思います。
この世のはじまりはあったでしょう。
そこは人間の認知を超えている部分だと思うので神と言ってもいいでしょう。
その根源から現在の人間に至るまで物理法則みたいななんらかの法則があって、それを神の御業と捉えるのもいいでしょう。
そしてその結果、人間の本質がこうであるというなら、科学として解明していけるだろうというのが現代日本的な納得しやすいアプローチだと思います。
思いやりや奉仕心も互恵性社会で培ってきた人間の生態なのかもしれないという科学的な理由付けができてきている時代です。
人間の生活に根差した道徳や本質的な信仰心なども同じように科学の考え方で私たちにも納得しやすい形で言語化できるようになってくるのではないでしょうか。
そんな流れでも、深い洞察を含む信仰的な話には、結果的に科学的なアプローチと同じ真理や処世術にたどり着くことが多いと思います。
それがおもしろいと感じるところですね。
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