『文読む月日』-4月21日

文学

その人たち自身が自分を憐れがっていること、たとえば財産とか家族とか美貌とか健康とか世俗的栄誉とかを失ったということでその人たちを憐れむのではなくて、真に彼らの憐れむべき点、たとえば彼らが道徳心や清浄な理性や善き習慣などを失ったことで憐れむ術を学ぶことは、なかなか難しい。しかしながら、隣人に対する己れの義務を果たすためには、そのような人間関係がどうしても必要なのである。

『文読む月日』ちくま文庫 レフ・トルストイ 作 北御門二郎 訳

本当の友達なら悪い事は止めてあげるべきだ。みたいな話と通ずるところがある気がします。

物質的活動のことで喜んだり悲しんだりする隣人と同調するよりも精神的活動のことで一緒に喜んだり悲しんだりすることが信仰の上では正しいということを言っていると思います。
本人からしてみれば物質的なことの方がうれしいということが殆どだと思いますが、信仰に生きる人にとってはそんなことで一喜一憂すべきではないと水を差さなければいけないという、友達ができにくい生き方になりそうです。

逆に病気をしていたり恵まれなかったりで肉体的希望が持てない人にとっては精神的な善良さを評価されるというのは嬉しいでしょうね。
しかし、それも物質的活動の代替として精神的活動に価値を感じているだけのような気がします。
根底には物質的活動が第一位だけど、それが無いから精神的活動で満足する、というような倒錯があると感じてしまいます。
もちろん十人十色ありますからその人の心の中をのぞかなければ分からないのですが。

真に精神的活動を重んじるということは物質的活動に慣れた人間からするとちょっと想像もつかないくらい価値観が違うということでしょうね。

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