『文読む月日』-4月15日

文学

われわれの行為そのものは、われわれに属するけれも、その行為の結果は早や天に属するのだ。(フランシスコ)

『文読む月日』ちくま文庫 レフ・トルストイ 作 北御門二郎 訳

このフランシスコは、イタリアのカトリック修道士、アッシジの聖フランシスコ(Saint Francis of Assisi)のものだと思われます。
「裸のキリストに裸でしたがう」ことを求め、清貧、 悔悛と「神の国」を説いたとのこと。

この言葉の解釈ですが、
まずは行為の責任は人間にあるということを言っていますね。
行為は自身の判断で行われるという前提がありそうです。

一方、行為の結果は自分のコントロール外にあるという言葉が繋がっています。
どんな意図があったにせよ(それが善意であったとしても)、望んだ通りの結果になるとは限らないということでしょう。
「天に属する」とは、結果の意味や価値は神(世界の理)に委ねられる、という宗教的な意味合いと捉えてもいいかもしれません。見方を変えれば、人間の小さな行為も神の大きな計画の一部(世界の理の一事象)として意味を持つという信仰的にポジティブな面も見えます。

世界にも類似する言葉は色々あり、文読む月日にも度々出てきます。
・ヒンドゥー教(バガヴァッド・ギーター) 「行為をなせ、結果に執着するな」
・ストア哲学(マルクス・アウレリウス等) 「制御できるのは行為であって、結果ではない」

ゆとり教育みたいですが、結果がすべてではなく、行為(過程、特にそう判断した思想)に内面的信仰の価値が見出せるということですね。
結果は自分の領分ではなく、世界の理が求めているようになると。
なので結果に気負いせず信じることに価値を見出そうという宗教的道徳的な言葉といえそうです。

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