神への愛なき隣人愛は、根のない植物のようなものである。神への愛なき人間愛は――われわれを愛する人間、われわれの気にいる人間、美しくて楽しい人間に対する愛にすぎない。そのような愛は、しばしば愛から憎へ転化するものである。神を愛するがゆえに隣人を愛する場合われわれは、われわれを愛さない者も、われわれにとって愉快でない者も、肉体的に不具で醜悪な者も愛するであろう。そのような愛こそ本当の健全な愛であって、その種の愛はけっして衰えることなく、長く続けば続くほど、ますます強固なものとなり、それを経験する者にますます大きな幸福を与えるのである。
『文読む月日』ちくま文庫 レフ・トルストイ 作 北御門二郎 訳
トルストイの考える信仰の信念が表れている文章だと思います。
隣人愛は無差別であるべきというのは、すべての命が神の被造物だからであり、個人的な好き嫌いは影響すべきではないという考えが伺えます。
神を愛するがゆえというのは、文字通りキリスト教的な信心を持つ限り、という意味に思います。
信心に依らない愛は、つまり自分に都合の良い/悪いという自己都合の好き嫌いと分類できそうです。
なので愛憎が交換できる概念として理解されてしまうということでしょう。
信心による無差別な愛は長く続けばより強固になる、というのは習慣化のおかげだと思います。
意識的にやる必要がありますから、習慣化しなければ続きません。
信仰が訓練のようだと思われるのは人間の心があるべきものではないから、訓練が必要ということはその裏付けだと思います。
良心に従って生きることが必ずしも信仰に適うとは限らないのは、人間は人間が信仰するような人格的存在に作り出されたからではないからだと思います。
あくまで自然科学的に進化してきた動物であり、物理的精神の生き物が人間なんだということを実感します。
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