『文読む月日』-2月27日

文学

慈善は、それが自己犠牲であるとき、ほんとうの慈善である。

『文読む月日』ちくま文庫 レフ・トルストイ 作 北御門二郎 訳

キリスト教の自己犠牲賛美はいいのですが、本当に自己犠牲であればそれでよいのかというのは気になります。自己犠牲の結果周りに迷惑がかかったり、一見自己犠牲と思われるが自分たちにとって利益になる行動だったりする場合はどうなんでしょうか?

真心から自分が身銭を切って他人にしたことが有難迷惑だったら慈善ではないでしょう。
家族のため特攻して他人を殺しても慈善ではないでしょう。(実際の人たちを批判する意図はありません)

ともあれ、自己利益を見越した慈善は慈善ではないというのは感覚として分かります。
目的が他人のためではなく自分のためですからね。
目的が他人のためだったとき、他人に不利益を与える場合が慈善という名で正当化されると厄介だなと思います。

現代では欧米の「ノブレスオブリージュ」という考え方が日本でも聞くことのある慈善の一つだと思いますが、これも金持ちが名を売る、投資的に出資する場合もあるみたいで、批判の的になっていたりしますね。
庶民からみたら大金を出して身銭を切る行為に見えますが、金持ちからしたらどのくらいの自己犠牲になっているのかは分かりません。
こういう度合も慈善判定に関わってくるのでしょうか?

と、こんな風にいろいろ定義づけをしたくなってしまうのですが、一段抽象的に考えると、トルストイの善悪の考え方がシンプルでいい感じです。
人びとを合一させたり融和したりする行いだったということが分かったら善、それが自己犠牲を厭わず行われたのなら慈善、人びとに反発や離合をさせる行いだったということが分かったら悪、よくても偽善という考え方です。
いかがでしょうか。

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