ある人々が、必ずはある人々より強くて利口であるから、平等なんて所詮不可能だ、とよく人々は言う。しかしながら、ある人々がほかの人々より強くて利口だからこそ、それこそ人々の権利の平等ということがことさら必要なのだ、とリッテンベルグは言っている。現在強者による弱者の圧迫がかくもはなはだしいのは、知力や腕力の不平等のほかに、権利の不平等までが存在するからである。
『文読む月日』ちくま文庫 レフ・トルストイ 作 北御門二郎 訳
個体として能力は平等にならないのだから、せめて権利については平等が必要だよね、ということですね。
人類平等に権利を持つという発想は何に裏付けられているかというと、キリスト教的な思想だと思っています。
人間はみな神の被造物であり、隣人愛が求められるし、霊魂はみな同じという考えですね。
そのうえで人間の持つ権利が平等になるように調整しないといけないのはおかしな話のように思いますが。
基本的に活動や交渉で獲得していかなければ権利は獲得できないという実際の体験による理解と、思想上みな無条件に平等であるべきだというギャップが権利という概念にはありますよね。
思想というのは、宗教的背景が説得力を持つキリスト教圏の思想ですね。
これに馴染みがない人たちにとっては権利とは無権利者に対する優越で、義務は権利者に対する優越の弁済のように思います。
誰がその優越が適切かを担保してくれるのか?という問いには当事者同士で同意をとっていくか、当事者より権力を持つ機関が間を取り持つしかないと思います。
意外とこれは多くの国でも同じ感覚ではないでしょうか。
この感覚は、人間社会が大きく複雑になってきた中でコスパのいい組織運営のフレームワークなんだと思います。
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