われわれは、建物や山や天体の巨大さに驚嘆し、あれは何百万フィートあるだろうとか、何百万ブードあるだろうとか言って騒ぐ。しかしながら、いかにも巨大に見えるそれらのものも、それを認識する者と比べれば無に等しい。まさに老子の言うごとく、この世で最も強力なものは、目にも見えず、耳にも聞こえず、手にも触れないものである。
『文読む月日』ちくま文庫 レフ・トルストイ 作 北御門二郎 訳
老子では「道」が、名前も付けられなく捉えどころがないが、確かに万物の源流である存在として認識されるというようなことが書いてあります。
それが目にも見えず、耳にも聞こえず、手にも触れないものですが、トルストイとしてはキリスト教で言う神がそれに相当するものだと考えているようです。
世俗的な当時の教会キリスト教を批判し、様々な宗教を研究して理性で独自の宗教哲学を作り上げていった人ですから、東方哲学や他宗教の考え方とキリスト教の共通点を見つけ出し、世界普遍のものを心理に近いものと捉えただろうと思います。
世界普遍の考えの多くは、素朴な観察から深い洞察に至っているように感じるものが多いです。
この考えもその一つですね。
物質的な物の大きさや偉大さよりも、それを認識できるようにしている何者かの存在があるはずだという考えは人間の存在の特別さや、あるいは卑小さに至っています。
認識=理性=霊(神)という図式はキリスト教的ですが、様々な宗教で認識できること、認識できるようにしている何か大いなる存在があることを特別視することが言及されますから、深い思考に入ると人間の本能にある何かがそうさせるのでしょうね。
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