自分自身を単なる肉体的存在と観ずるや否や、人間はたちまち解きがたき謎、ほぐしがたき矛盾となる。
祝福された人々の住むところとしての天国について語るとき、人々は通常、頭上の無限の空間のなかのどこか高い場所のことを想像する。しかしそのとき彼らは、われわれの住む地球もその宇宙空間から眺めれば空の星の一つと見えること、それゆえ、それら宇宙の住人も、地球を指さしながら、「ほら、あの星をごらん。あれは永遠に祝福された場所、われわれのために備えられた、われわれがいつかは行くべき天の住居だよ」と言う権利があることを忘れているのである。要するに問題は、われわれの知性の犯す奇妙な錯誤によって、われわれの信仰の翼が常に高く高く上がるという観念と結びついていて、たとえどんなに高く上がったところで、いずれは再び下へ降りてきて、どこかまた別の世界に足をしっかり着けねばならない、ということを忘れていることである。(カント)
『文読む月日』ちくま文庫 レフ・トルストイ 作 北御門二郎 訳
今日も霊と肉体の二元論についてがテーマになっていました。
ただ、それに加えて理性の限界についても書いてありました。
理性と認識能力が近しいもののように捉えられている感じがしましたが、この世の出来事はわれわれの認識能力の限りで認識されており、さらにその認識が世界を作っているということ、また、認識能力には限りがあるので物事そのものやその本意は認識能力によっては解し得ないと。
確かにねえ、と思いましたが、面白いと思ったのはカントの箴言でした。
言い回しが面白いですよね。人間のふわふわした認識能力のことを回りくどくたとえ話のような感じで書いていて読みたくなる文だと思いました。
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