本質的には、神を敬う方法はただ一つしかない――すなわち、己の義務の遵奉と、理性の諸法則にかなう行為がそれである。(リフテンベルグ)
自分の言葉も他人の言葉も、とにかく言葉を信用しないで、自分の行為や他人の行為のほうを信用するがよい。
『文読む月日』ちくま文庫 レフ・トルストイ 作 北御門二郎 訳
思想だけでは役に立たないし、行為が伴わなければ価値にならない。という思想は各所にでてきています。
信仰についても、信仰に適う行為だけが本当の信仰であると考えているようです。
ただ、他の著作を読んでいても、自分の心の中で祈ることや内なる良心を感じ大切にすることに否定的なわけではありません。
ここでいう行為とは、社会的に(他者とのかかわりの中では)行為こそが信仰に対する評価基準になるという価値観だと思います。
特に他者に信仰を広めるには、という文脈が頻繁に見て取れるので個人の信仰を他者に伝播させるには、という目的があると考えています。
ちょっとズレますが、老子41章にも道の実践についての記述があります。
すぐれた士は道のことを聞くと力を尽くして実践する。下らぬ士は道のことを聞くと大笑いする。
笑われるようなことが道なのだ。と。
信仰の実践を描くトルストイの著作のなかにも、自分の土地を百姓に分け与えようとするネフリュードフは多くの人に笑われていました。
老子とトルストイの関係がどれほどかは知りませんが、このような考えは自在自立しているのかもしれません。
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