いかなるものにも抵抗できるけれど、善良さに対しては抵抗できない(ルソー)
『文読む月日』ちくま文庫 レフ・トルストイ 作 北御門二郎 訳
キリスト教的な思想の日でした。
どんな悪行でも善意を挫くことはできない、善最強ということですね。
ただし現世肉体的には不利益に耐える必要があります。
この思想、肉体と霊の二元論のとき霊性が善の元である(あるいはそのものというようにも聞くことがありますが)という前提がなければ成り立たないので私にはしっくりきません。
かといって、霊に対して敬虔でないながらも私に善がないとも思っていません。
人に備わっている善については、社会的互恵関係が進化の上で有利に働き残っていったという説が今自分の中でしっくり来ている説です。
互恵的利他行動で有名なチスイコウモリなどがよく引き合いに出されますが、利己的な個体は短期的に見て強者になりますが、長期的に見て破滅することが示唆されています。
人間にも他者を愛し思いやる心は確かに在るのですが、それは単にナナフシが枝みたいな形になったのと同じ理由でそうなったのだとしか思えません。
すなわち善と霊性に関係があるという前提には立てないわけです。
そして、それも肉体の遺伝子を残していきたいという思いがあってこそで、神によって与えられたというよりは肉体の欲求によって育まれた能力という風に考えられるわけです。
そういうことを考えると、肉体と霊の二元論というのがますます腹落ちしなくなってしまいました。
「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」というフレーズが善の強さを例えるのに用いられます。
これ、打たれるくらいならいいのですが、生命に関わる内容なら互恵関係の範疇を超えていますから、そこが一番の突っかかりポイントでしょう。
程度問題にしてしまえばいいのですが、融通は効くのでしょうか。
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