家族に対する愛情は、結局自愛の感情であって、それゆえ不正な、よからぬ行為の原因になりかねないが、けっしてその弁解にはならない。
『文読む月日』ちくま文庫 レフ・トルストイ 作 北御門二郎 訳
家族愛を自己愛とすると結構境界があいまいになる気がしますが、身内のために何か不正を行うことは自分の行為の言い訳にならないというのは私たちからしたら当然のことのように思えます。
ただ、ロシアとかヨーロッパとかの身内のためなら何でもやるのが当たり前とか友達のためなら犯罪も一緒にやるみたいなのが友情みたいな、そういうノリが濃い文化だとワンチャン許してもらえるかもみたいな雰囲気があったのかもしれませんね。
気になるのは、自愛の感情ゆえに不正行為を行うという文の繋がりです。
自分に厳しく他人に寛容に、というのはトルストイの中でもよく出てくる思想ですが、自愛即危ういということは少し引っかかりました。
もしかしたらここで使われている自愛という言葉が、甘さやいいかげんさというネガティブなイメージを持つ前提があるのかもしれません。
動機よりも行為結果で判ずるというのが当然のように感じるのも、今の日本に染まっているからというだけかもしれないと感じた回でした。
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