『文読む月日』-6月17日

文学
戦争の場合ほど、人々の行動のなかに外部からの教唆の力の結果が、すなわち理性への聰従でなくて、人の伝えへの聴従の結果がはっきり現われることはない。幾百万の人々が、彼ら自身ちゃんと、それが愚劣で、醜悪で、有害で危険で、破壊的で、苦痛に満ちたもの、兇悪なもの、なんの必要もないものと認めているところのものを、有頂天に、誇らしげに実行し、それがなすべきでないことをちゃんと心得ており、かねがねそれを口にしているくせに、やっぱりそれをやめようとしないのである。
『文読む月日』ちくま文庫 レフ・トルストイ 作 北御門二郎 訳

イスラエルやロシアの状況をニュースなどで見ると沁みますね。
個人でものを考える場合(また行動する場合)、良心に従うことが大事だと考えることは簡単ですが、自分が属する集団から示される指針にそれを適用することは難しい場合が多いですね。

戦争は政治の手段だという話もありますが、政治の問題は個人には制御できないと感じますよね。
トルストイは政治の問題に現実的に対処する方法として、一人一人が個人の良心に従って行動し、良心が否決するような行動は拒否する態度をとることを主張しました。

時代や国によっては個人がどれだけ尊重されるかは違いますから、そのような行動は集団から抑圧の対象になります。
懲役拒否でシベリア送りになった人というモチーフもよくつかわれている印象です。

キリスト教的には現世利益よりも霊の成長ですからそれで美談になるわけですね。
良心に従ってそれを突き通すまでは立派ですごいと思うのですが、その後の自身や家族のことを考えれば現実では真似できないと思うわけです。
物質と霊の二元論に納得できる代替案があればキリスト教を受け入れられる気がするのですが。

箴言に戻りますが、戦争が起きるということからは人から人への教唆の力がよく表れているということを言っていますね。
トルストイの人間観は、善を好むのが本性であり(霊が主導権を持っているからですね)、ただ良心に従って生きることが善い人生を送ることだという考えを持っています。
それが、人間社会という集団になると迷妄が主流を作っており、それは人から人への煽動、教唆、おしつけのためという構造になっています。
これは、ナショナリズム批判、教会キリスト教批判、軍や裁判制度批判につながっていると考えられますね。
これらはすべて人が人へ教育することによって起こる迷妄ということですね。

つまり、個人個人が良心に従い信仰の実践を人生において尊重することが人類平和の礎ということです。

イスラエルはユダヤ教の国で、ユダヤ教についてはお金持ちのイメージがあると思います。
少なくともイスラエルは経済的には豊かですね。
経済は戦争を無くす薬にはならないということかもしれません。
案外、宗教理論の再構築が達成された時に戦争がなくなるかもしれませんね。

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