社会は、共通の信仰と共通の目的なしには存在しえない。社会的活動は、宗教によって打ち建てられた原理を実生活に適用することのなかにある。 (ヨセフ・マッジニ)
人間集団が共同生活を作り上げることは、集団が大きくなればなるほど利害関係が頻繁に発生し難しくなりそうです。
そんな中宗教という規範や道徳が共通していれば、お互いが納得できる秩序を持つことができそうです。
しかし、実際には警察力や軍隊力、裁判という暴力を背景とした支配によって秩序を保っています。
理由としては、宗教が生物学的に実践可能な規範を示し切れていないという側面も大いにありそうですが、国という括りを政治体という組織で運営しようとしていることが難しさを際立たせているのだと思います。
人々の生活は物理的に人対人で成り立っていますが、政治に責任を委託すると抽象的なレイヤーに自分たちの生活の議論の場が移ってしまいます。
自分たちの手の届かないところで自分たちの処遇を決めていかなければいけないことに納得させられており、さらには投票という形で自分たちの処遇は自分たちで決めているとさえ思っているというのが現状だと思います。
大きく複雑な社会を形成しているために、直接政治ができないことは想像できますが、自分たちの生活を一度すべて任せるような形になっているのは善いことだとは思えません。
歴史的に、支配者と被支配層という対立の流れから、被支配層にも文句を言う権利が徐々に認められつつあるというのが現状だと思います。
話が逸れましたが、宗教的な規範というのはそれが重視されればされるほど支配層ですら従わなければいけないという空気をもちますから、社会的政治的な規範よりもポテンシャルがありそうだと思っています。
空想的ないい人になるための道具なのではなく、被支配層が自分の生活を自分の手にするために、平和的な抵抗を可能にするのが宗教なのだと思います。
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