一時期よく見かけた、誰も生まれなければ不幸はないので子供をつくらないべきだ、という主張について私見を述べていきたいと思います。
インターネットの片隅の一ページですので好きに書いていきます。
1. 反出生主義とは
大きく分けると、個人に対する不幸が幸福よりも大きいのだから不幸の総和を減らすために、あるいは全くなくすために子を作るべきではないという主張と、地球環境の破壊を止め、回復するには人間が産まれない方がよいという二派にわかれると思います。
後者の「地球環境」については、今回はズレると思うので、前者について考えます。
前者でよく言われる論としては、「生には必ず苦痛があり快は苦痛よりも少ないのだから、生まれないほうがいい」といういわゆる誕生害悪論があります。
子供を産むのは即ち子の不幸を招いているとか、親ガチャ国ガチャなんかの愚痴に繋がっているようです。
ちなみに自死は大きな苦痛にあたるので、反出生主義であっても早々にけりをつけることはしないそうです。
2. 反出生主義の構造についての見解
直感的に、反出生主義は成り立たない、あるいは成り立つとしても限定的な瞬間だけだと感じています。
そこで反出生主義を構成する要素について考えます。
Ⅰ. 生は苦痛の方が大きい
Ⅱ. 子も同じく苦痛の方を多く味わう
Ⅲ. 苦痛は悪なのでない方がよい(快は善である)
Ⅳ. 親は子を不幸にしてはいけない(ので、産まない方がよい)
他にもあるでしょうか?
人によっては人生そんなことないとモヤモヤを感じるのではないでしょうか。
ただ、この世の中生まれてこの方苦痛しか感じてこなかった人がいそうだとも想像できます。
ただし、そんな人にあっても反出生主義は正しい主義になるのでしょうか?
おそらく、上記のモヤモヤからはこんな反対意見が出ると思います。
Ⅰ’. 快や苦痛の大きさは未知数である
Ⅱ’. 変化や向上の見込みを切り捨てる
Ⅲ’. 苦痛(悪)や快(善)には個々別々に評価される余地がある
Ⅳ’. 子が不幸になる場合、いつも親の責任とは限らない
苦痛を回避する(したかった)気持ちが反出生主義なのであれば、苦痛なく快ばかりであればどんどん産みたくなってしまうのではないでしょうか。
そんな反対意見が考えられます。
今度は個別に詳しく考えてみます。
Ⅰ. 生は苦痛の方が大きい
まず、「生は苦痛の方が大きい」の意味ですが、あることに対してより良いことがあるパターン(快)とより悪いことがあるパターン(苦痛)を考えた場合、それを感じる人がいる場合よりもそれを感じる人がいない方がより悪いことが少ない、ということが生は苦痛の方が大きいという根拠の1つになります。
また、単に不幸が幸福よりも大きいという意味でも通ります。こちらはこの説を提唱する人の主観だと思います。
前者については、人が存在しているより存在していない方が、より悪いパターン(苦痛)が少ないというわけです。
ですが、人がいないのであればパターンも価値がないのではないでしょうか。
人が存在しているときは快と苦痛のパターンも同数かつ、人が存在しないときはどのパターンもありえないと考えられないでしょうか。
後者について苦痛の大きさという点では、快と苦痛の大小を比べる術はないことと、加えて快や苦痛、生の意義についての考えなどは含まれていないようです。
単に苦痛か快か、あるかないか、感じる者がいなければ苦痛のパターンが少ない、という苦痛の「あるなし」の考えでは子を為すことを否定するに足るとは感じられませんでした。
この考えはデジタル的で、人生はアナログですから非常に切り取られた考え方なのではないかと感じます。
Ⅱ. 子も同じく苦痛の方を多く味わう
快と苦痛の大小や生の意義についての考えによっては単なる「あるなし」問題では考えられなくなりました。
加えて、子についてならなおさら主観から外れるものですから決めつけることは不可能です。
また、子が苦痛の方が大きく生の意義も見出せない場合もあるかもしれませんが、人生の中で事態が好転しないとも限りません。人類苦痛皆無を目指す完璧主義でもなければ「あるなし」では語れないと思います。
子の不幸は親の義務不履行という考えもあるようですが、子の人生が終わるまで観測し続けなければ人生そのものに対する幸不幸は判断できないはずです。やはり「あるなし」前提になってしまうのではないでしょうか。
Ⅲ. 苦痛は悪なのでない方がよい(快は善である)
苦痛をどう捉えるのかは人によって大きく変わりそうです。
欲求が叶えられない、身体的な痛みや病気、虐待をうけている、インフルエンサーのような生活ができない、など。
もし苦痛(悪)を感じることができない人類が誕生すれば反出生主義は消えるのでしょうか?
ところで、苦痛(悪)や快(善)は感じる人間あってのものですから、大小やその意義について理性が価値を付けるはずです。
その存在のあるなしだけではなく大小や意義が最終的な善悪を形づくるものではないでしょうか?
Ⅳ. 親は子を不幸にしてはいけない(ので、産まない方がよい)
人生が不幸になるかどうか、大小や意義については同じですが、一方で親が子の人生のどこまでの責任を持つかという視点も入ってくると思います。
多くの場合は親が死んだ後も子は生きていますから、物理的に子の最期の時まで責任を持つことはできません。
子は独立した人間ですから、親の義務から手離れする時が来るわけです。それが無責任だからよくない、という考えもあると思いますが・・・
先祖代々子々孫々みんながみんな責任を持ち続けることは考えられません。
苦痛や快に対する受け止め方を教育することが親の責任といえるのではないでしょうか。
また、自身の欠点や嫌いなところを引き継いだ人間を生み出すのは偲びないという考えもあるようです。
子孫を残すのに付き合ってくれるパートナーがいるのであれば杞憂と思いますが。
ここまで、反出生主義は下記の前提に立っていることが分かりました。
・苦痛は皆無でなければならない
・苦痛の可能性はすべて排除すべきである
では、なぜ苦痛が皆無でその存在可能性も排除されていなければいけないのでしょうか?
3. 苦痛についての見解
苦痛、不幸、人生においてよくないものを存在してはいけないものとして捉える理由を考えます。
これらのものは直感的になければいいものと頷けるのですが、本当にそうでしょうか。
Ⅰ. 人間が進化するうえで獲得した感情、その機能の発現として苦痛や不幸を感じているはずです。
生き、子孫を残すために進化してきた機能で生き、子孫を残すことを否定できるでしょうか?
猪の仲間のバビルサは牙が伸びすぎると頭蓋骨を貫いて絶命してしまうそうです。
しかし、牙が伸びすぎる個体は滅び、そこまで牙が伸びない個体は残っていくとも想像できます。
反出生主義が苦痛や不幸を殊更に感じすぎるための症状だとしたら、その主義を実践して滅びゆくことになります。
正しきものが滅びることもあるでしょうから、滅びることが正しくなかったことの証明にはなりません。
しかし、生物として生きるための主義としては正しくないでしょう。また、苦痛の存在がいかなる場合でも否定されなければいけないものと判断できるまでは正しいとも言えないでしょう。
Ⅱ. 人生において快が苦痛を相殺ないしは上回り得ない、というのは普遍的なことと言えるでしょうか?
主観的な感情についてのことですから、いくらか論ずるには難しいところがありそうです。
・その時の気分によって変わる
・観測が終わってから結論づける必要がある
・他人の感情は理解することができない
つまり、人間の営みをすべて終わらせてからその幸不幸の総量を観測してみないとそんな主張は難しいのではないでしょうか。
Ⅲ. 苦痛や不幸は常に悪でしょうか?
自然科学は、人間が感情によって判断し、理性によって理由付けすることを発見しました。
苦痛や不幸を感じた場合、様々な理由付けが行われます。
その結果、その出来事に対しての意義を見つけられるのです。
信仰、偏執、仁愛、様々作り上げてきた信条からその出来事に意義付けをすることで単なる悪ではなくなることがあると思います。
つまり、受ける教育によっては死すら不幸ではないということがままあるということです。
苦痛の大小が測れないこと、人間には理性があり苦痛が「あるなし」では論じきれない意義をもつこと、常に苦痛の存在を皆無としなければいけない根拠が見つからなかったことから、
反出生主義にみられる苦痛については、少なくとも他者に出生を非難したり、ましてや禁じたりするほどの説得力は無いように思えました。
反出生主義に関する私見
人間もここまで来るには多くの個体の淘汰の上に繁栄を築いてきました。
今にあっては、反出生主義は、滅びを予測した者達の理由付けに勢いを得ているのではないでしょうか。
実際のところ、うつ病や病質のパーソナリティと関連があるようです。
論そのものとしては、苦痛の存在、子に対する責任、これを完璧にクリアできないのであれば子を作るべきではないということでしたが、非常に優しく心配性、臆病なものだと思いました。
逆に、産めよ増やせよは残酷で素直で勇敢な感じがします。
しかし、どちらも自分と自分の周りの幸せを願う気持ちは同じだと思います。
それは人間が社会的動物だからでしょう。
つまり、遺伝的に集団で幸せになりたいプログラムが組み込まれていて、その気持ちが根底にあるんだと思います。
ちょっと視点を変えて、もし現代が今のような個人主義ではなく社会の存在が強かったとしたら反出生主義は今ほど日の目を見なかったのではとも思いました。
個人で不幸に感じ入りやすく、どこかに合理化できる理由が必要になってしまう時代だからこそ勢いづいたのではないでしょうか。
少なくとも、産みたい人を非難したり、産まない主義を押し付けるほどの強さはない論だったと思います。そういう意味では、この論はまだ正しいとは言えない、というのが私の意見です。
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